「お茶は楽しいわよ、遊びだから」と、幼い頃から茶道を教えてくれた祖母は良くそう言っていました。茶道のお稽古は厳密で事細かく形式ばかりのようにも見えるのですが、祖母の4畳半の茶室に座っているときは何故かとても居心地が良く、和菓子を頂いてから飲むお抹茶は、私にはいつも香ばしく美味しかったです。
海外生活が長かったので、帰国する度にお稽古に通いました。朝早く起きて祖母の家に行き、着物を着てお稽古をするのですが、着物を着ることも、お道具も、お点前も、覚えることが多くて果てしなく思えました。ある日母に「なんで茶道を続けるのかな」と尋ねました。足も痛いしこの伝統を続けることに何の意義があるのかなと。母は「そうね、でもお茶で学んだことを既に日常に取り入れていると思うわよ、例えばお友達のお家を訪ねる時、あなたの為に準備されたものに気がついて、それについて会話をすることができるでしょ?簡単そうに聞こえるけど、そうでもないのよ。お茶はお稽古で、本番は日常でどう活かせるかだと思うわ」と。そんな会話がお茶を身近に感じるきっかけになり、「茶道は日常生活の中で美しいものを楽しむ心を養うこと」ということなのだと気がつくことができました。着物を着て、芸術品のお道具を扱うのも、自分もその一部になることで、その色々な不完全で美しい「侘び」と言われるものに気がつくことができるのだなと。利休は侘びの本意としてこの歌を好んだそうです。
「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみせばや」
桜の花など高い梢ばかりを見て春が来ないと待っているだろう人たちに、足元に芽吹く小さな緑にも春は来ているのだと伝えたいという意味。
人それぞれの表現方法がある中で、私にとってそれはお茶でした。伝統から学びながらも自分の視点でお茶を見つめ、日々の生活の中で問い続けながら進化することを考え、そしてティータイムを通じて自分と、そして人と繋がる時間を楽しめたら良いなと思っています。
宗夏庵での茶道は、表千家不審庵に基づいて行い、初めて茶道をする方でも参加しやすい内容を取り入れています。
Photo Credit: Manbo Key